地形を占う風水

Mysticsartdesign / Pixabay

風水とは、テクノロジー(科学)であり、
全て理にかなっているもの。

龐統(ほうとう)という人物も
普通の人とはかわらない。

しかし、彼は人として、
地球を誰よりも知っている人です。

彼ほどこの世界を知って居た人は居ないであろう。

すべての発展都市は、
風水を取り入れている。

 

 

1.風水という言葉と歴史

風水の思想は、住居や墓、都市の配置の
吉凶を判断するための知識と技術として扱われていました。

生きている人間の住居を陽宅といい、
死者の住居を陰宅と呼びます。

陽宅と陰宅を明確に区別することが、
生者と死者それぞれにとって、
良いものだという考え方から風水が始まりました。

風水とは、家を買う時、
運気を上げたい時に意識するものです。

私たちの身近では風水という言葉は当たり前に使い、
黄色いものを西に置くといいという言葉は聞いたことがありますか?

これは、実際はもっと方角も短く、
色も黄色と白が正しかったりします。

北はお金を貯めるなど、
沢山の運気アップする方法を、
風水で知ることが出来ます。

 

1-1 風水という言葉の発祥

「風水」という言葉は、
古代中国から来た言葉です。

中国の上古時代の遺趾の考古研究によると当時、
住宅は一般に河・湖に近い、
南或るいは東の向きの家が多かった。

墓は一般に住宅の北にあった。

このような訳で、
古人は地理環境に対する認識があって
意志的に住宅の位置を選択していたと言える。

その住宅の布局の特性、
要するに「水に近い、太陽に向き」というのは、
後に風水の原則になっています。

風水はいくら変遷しても、
この原則は変わっていません。

この意味では、
風水はすでにその時に芽生えたと言えます。

①「故に死者は北首し、生者は南郷す。皆其の始めに從ふたり。」

②「東方は其の気を風と日い、風は木を生ず、
南方は其の気を陽と日ひ、陽は火を生ず。中央を土と日ふ。
西方は其の気を陰と日ひ、陰は金を生ず。
北方は其の気を寒と日ひ,寒は水を生ず。」

③「東方は木なり。南方は火なり。西方は金なり、北方は水なり。」
という理論がありました。

これらの理論は
「近水向陽」という素朴な発想から変化してきたと考えられる。

南或は東の向きという特性は太陽の光りと
暖かさを取るためで実際に生活上必要であるが、
別に観念的な原因もあった。

東は太陽が上昇する所で、
南は熱帯 で自然に火と関連性があります。

上古時代、太陽と火は同じ意味で、この視点から見ても、
陽宅風水は太陽崇拝から芽生えたと考えらえられます。

青鳥と青鳥は風水の最も古い称とされていますが、
この青鳥と青烏の神話があります。

上古時代,中国ではかつて、
主に太陽に対する崇拝があった。

伏義時代の伝説によると、
太陽が島であるという。

太陽が烏のように空中を飛んでいるからと言われています。

『山海経』にこのような伝説がある、
青鳥は黄帝と西王母の大臣であり、
常に黄帝のそばに奉待していたという。

『左樽』にも次のような記載があり、
「少昊之国・以百鳥命官・青鳥氏,司君也。」
つまり、青鳥氏は天文暦法に関する長官でした。

古くは晋の郭璞に仮託された、
『葬書』にある一文を元に出来たと言われています。
「気乗風則散 界水則止 古人聚之使不散 行之使有止 故謂之風水」

日本語訳)
気は風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。
古人はこれを聚めて散らせしめず、これを行かせて止るを有らしむ。
故にこれを風水と謂う。

という言葉から来ていると言われています。

ここでいう風が気を指し、水は水流。

すなわち、
エネルギーの方向性を説いたものです。

この郭璞(かくはく)という人物は、
中国西晋・東晋の文学者、卜者です。

文才と卜占の術を使い、建国まもない
東晋王朝の権力者たちに重用されました。

史書や『捜神記』などの志怪小説では、
超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されています。

卜占・五行・天文暦法だけではなく、古典にも造詣が深く、
『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる人です。

魔除けグッズで密かな人気アイテムの山海鎮(さんかいちん)が、
この山海経に由来しているものです。

山海鎮は、鎮宅・避凶化吉などの意味ももつ、
八卦や神々の御符、呪文が書かれたものです。

一句を和訳すると、
「我家は山海の如し、それは我を無方となす」

つまり「我が家は山海と同じで大自然のように大きい、
それゆえ凶方位や殺気など我が家には働かない」というような意味です。

玄関先に掛けて外に向けたり、あらゆる形殺に向けることで、
避凶化吉だけでなく、家内安全・家運興隆・招財進寶・悪霊退散・子孫繁栄などの
多大なる恩恵を受けるといわれています。

特に霊力が強いとされる桃の木を使用しています。

他にも風水の起源となったのは、
『青鳥術』と『青烏術』、『相宅』と『ト宅』、『堪輿』にあると言われています。

また風水は、易学の一つであり、
易の考え方の『水風井卦』を
そのまま使用したものが語源といわれています。

井戸を掘る場所、
人々が住居を決めるための技術でもある。

 

1-2 風水の歴史

陽宅風水観念の起源は古く、
伏義時代にはもうすでに存在していました。

その最初の胚胎は、
太陽に対する崇拝の信仰から生まれたもので、
その雛形がト占でした。

なので、一番古い風水は、
ト占とされています。

しかし風水は、貴族や皇族など、
高貴な方しか使われていませんでした。

風水の考え方が盛んになったのが7世紀頃。

この頃には、陰陽説や五行説が取り入れられ、
9世紀頃に形成学派という考え方ができました。

唐の時代にようやく楊均松が平民のために風水学を使い、
庶民から、楊救貧として慕われ、風水が平民に広まりました。

江西省を中心に山や水等の形勢を
判断する巒頭風水が発達しました。

また福建省を中心とする地域では、
11世紀頃に風水の羅針盤を使い、
方位学(理気)の占いとして確立されていきます。

今の風水は、明・清時代に学派と理気が曖昧になり、
羅針盤を使わなくなった状況が続いていきます。

このころに技術がどんどん発達していったものが
私たちの知っている風水となっています。

中国から日本に伝えられたのは、
奈良・飛鳥時代に日本に渡ってきた。

風水の思想は日本の陰陽道の発展に影響を与え、
家相の思想が日本独自の発展を遂げ、
現在日本の風水の形になっていった。

平城京や平安京、江戸城は風水に基づいて、
設計・建設されたと言われている。

より良い住居を選ぶための知識・技術としての
古代中国の風水が、何千年の時を経て、
現代日本の風水思想に繋がっている。

時代と場所が違っても、
より良い環境に暮らしたいという、
人間の願いは引き継がれています。

 

2.諸葛孔明も認める軍師 龐統の扱う風水

龐統 士元(ほうとう しげん)という、
人物をご存知ですか?

呼び名は、鳳雛(ほうすう)。

劉備の元で諸葛孔明(諸葛亮ともいいます。)と共に、
劉備の元で軍師として政治家として
三国志の時代に生きていました。

この人物はあまり三国志の中でも
あまり有名ではありません。

それは、劉備を守るため、
落鳳坡(らくほうは)にて戦死したからです。

そして、自らが戦死することすら、
龐統は知っていたそうです。

劉備は自分よりもすごいと、
鳳雛のことを認めている存在です。

それは、風水を戦術で使用し、
雒城(らくじょう)と言う城を攻略するときの話です。

岐路に立たされ、
片方は丘と丘に挟まれた静かな細道。

もう一方は広く切り開かれた道でした。

龐統は君主の劉備を広く切り開かれた道を勧め、
自身は静かな細道を使い挟み撃ちをする提案をします。

地形的にも細い道は逃げ場がなく、
伏兵が襲ってくることがわかっていたからです。

地形を読み、
戦術として取り入れていた戦乱の時代。

風水は国を作り上げていくために
必要な学問でもあったのです。

では、その時代の風水とは、
一体どんなものだったのでしょうか?

方位学(理気)を使っていたと言われています。

理気というのは、
理は物事の規則性をあわらしており、
気というのは目では見ることのできない流動的な動きのことを指し、
それがエネルギーの流れということです。

地層(立地、地学)を元にどのような攻め方をしたら、
攻め入ることができるのかを考えたり、
天候が悪い場合でも有利に立つ状況まで持っていくことができます。

鳳雛の凄さはこの時代では妖怪のように、
妖術を使うように見えるほど、
自然の原理や土地の作りをより理解していた人になります。

 

3.日本の地形と比較

日本でも実は、風水が取り入れられています。

日本史を遡っていくと、
風水を取り入れて街作りをしていたことがわかります。

しかも、政治の中心地に
必ずと言っていいほどなのです。

代表として、京都府と東京都の2都市が、
一番わかりやすい違いです。

その時代背景を追いながら、
どのように都を作り上げていったのか、
比較していきましょう。

 

3-1.京都

京都は、桓武天皇という天皇が
平安京という都として築き上げた場所です。

その前の平城京では、寺院勢力が強まり、
政治にまで口出しする環境になっていました。

桓武天皇が即位した際、
天皇による政治ができない状況だったのです。

そこで桓武天皇は遷都することを決意します。

候補に挙がっていた一つの長岡京を選び、
遷都します。

しかし、遷都してから大切な部下を暗殺され、
身内が島流しになり(途中で衰弱死)、

夫人の病死、母が亡くなり、皇太子が重病になり、
さらには天災で洪水や飢饉などの不幸が続いてしまいます。

わずか10年足らずでもう一度遷都を決意します。

遷都の際にモデルにしたのが中国の長安の都です。

朱雀大路という大路を中心の路とし、
宮城(ぐうじょう。御所のことです。)から南下するにつれ、
1条、2条、3条…と碁盤の目になっており、
これは風水の計算に優れた京の形を形成しています。

風水学的に最高の吉相といわれる地相、
「四神相応(ししんそうおう)の地」というのが、
この平安京の場所と言われています。

東西4.7km、南北5.2kmの長方形に区画された都城の平安京は、
心の平安が訪れるようにという願いがこもっていたのでしょう。

「四神相応」の「四神」とは、
古代中国の東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことです。

方位:東
守護は青龍。
豊かな川の流れがあることが必要です。
平安京の鴨川のことを指します。

方位:西
護は白虎。
ここには大きな道があり、交通の便が良い場所になります。
これは、山陰道を指し、
嵐山などがある山岳地帯を指します。

方位:南
守護は朱雀。
広大な平野や海があること、
すなわち視界が開けていることが大事です。現在は失われてしまいましたが、
巨椋池という池があったとのことです。

方位:北
守護は玄武。
ここには、山や丘陵があります。
鞍馬山、貴船(きぶね)山、船岡(ふなおか)山と伝わってゆき、
京都御所の龍穴へと流れ込む一連の動きができます。となります。

さらに、平安京の大極殿(政を執り行う中心)は、
「大文字山と嵐山」の東西軸と、
「船岡山と巨椋池」の 南北軸の交点にあると言われているそうです。

京都の街は道路が碁盤の目のようになっています。

これも風水的な意味があるらしく、
これ自体が結界の役目を果たしているそうです。

まさしく完璧な風水都市とされます。

平安京の南北に幅85mの朱雀大路が造られ、
右京と左京に分けられます。

このように平安京は出来ました。

 

3-2 東京

天海は、この3代の将軍の擁護下で、江戸の都市計画にも関わり、
陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想したことで知られています。

また、それより以前の慶長8年(1603年)には、
関ケ原の戦いに勝利した家康は、
幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、
江戸の地を選びました。

家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、
古代中国の陰陽五行説にある、
「四神相応」の考えをもとに、
江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされています。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、
南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものです。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、
南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えました。

ところが、ご周知のとおり、
富士山は実際には「北」にはなく、
真北から112度もずれた西の方向にあります。

しかし、天海は、富士山をあえて北とみたてて、
江戸を四神相応にかなうとみなしたといい、家康及びその側近も、
このねじ曲げた説を受け入れたといいますから不思議です。

これについては、理由はよくわかりませんが、
東の隅田川、西の東海道、南の江戸湾は天海の言うとおりであり、
人望もあった天海の言うことをここは聞いておこう、
と家康以下が思ったのかもしれません。

このため、現在も残る、江戸城の大手門(大手町のものではなく、
本丸のあった皇居内にあるほうで非公開)は、西向きに造られていますが、
これも富士山を「北」とみなしたためだとされます。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の、
7つの台地の突端の延長線が交わる地に、
江戸城の本丸を置くよう助言したとされます。

これは、東京の地理をよく知っている人にはわかるのですが、
その他の地方の人にはわかりにくいでしょう。

要はこれらの土地の中心に、
江戸城(現在の皇居)がある、という位置関係で、
この当時には確かにこれらの地は台地上にありました。

「台地の突端の延長線が交わる」かどうかは、
古地図を見ないとはっきりはわかりませんが、
ともかく、天海は、彼が持っていた陰陽道の知識により、
これによってこれらの場所の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされています。

江戸城の場所が決定した後は、藤堂高虎らが中心となって、
江戸城と堀の設計が行われましたが、その設計・施工にあたっても、
天海は、思想・宗教的な面からそれらに関わっていました。

例えば、天海は、江戸城の平面配置を、
「渦郭式」という形式の構造にしました。

「渦郭」とは渦巻き状構造のことで、要はカタツムリの殻のように、
城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることを推奨しました。

城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したとされ、
これは敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、
物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、
などのメリットがあったとされます。

攻城に対する効果はともかく、火災に対しては、
果たして本当にそうした効果があったのかどうかはわかりません。

江戸はその後何度も大火に見舞われているところをみると、
この点については該当しないような気がします。

が、交通の便に関しては一理あります。

東京へ行ったことがある人は分かると思いますが、
皇居周辺にはあちらこちらに大きな掘があって、
部分部分ではどうつながっているのかはよくわかりませんが、
地図をみると皇居を中心として、渦巻き状にこれらが、
配置されているのがなんとなくわかります。

ここを船を使って移動したとすれば、
なるほど便利だったかな、と思わせるレイアウトではあります。

また、これだけ巨大な堀を掘削すればかなりの土砂が出ただろうと推察され、
これをこの当時はまだほとんどが海であった江戸の町を、
埋め立てるのに使うというのは、かなり合理的なアイデアです。

天海はまた、江戸城の北東と南西の方角にある、
「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、
鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされます。

すなわち、江戸城の北東に置かれたのが、上述の寛永寺であり、
ここを徳川家代々の墓所とするとともに、
自らが住職を務め、鬼門を封じる「主」となりました。

寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味しますが、
比叡山は同じく京都の北東方面の鬼門に位置します。

天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、
寛永寺をここに建てたわけです。

また、その南側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、
琵琶湖の竹生島に倣って、
池の中之島に弁財天を祀るなどしたと言われています。

琵琶湖は比叡山の東側に位置し、まったく位置関係は異なりますが、
できるだけ寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう、
その環境を真似たのだと、言われています。

このほか、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、
もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社(神田明神)を現在の湯島に移し、
幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、
徹底的に江戸城の北東方面に神社仏閣を置いて、鬼門鎮護を厚くしました。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、
その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、
さらに、同じ方角に、近江の日吉大社(琵琶湖の西にある)から分祀した、
日枝神社を建立するなどして、鎮護を意図したといわれています。

神田明神の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭ですが、
これらの祭りは、天海により企画されたもので、
これは江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもあったようです。

現在の地図をみても、江戸城の位置は、寛永寺・神田明神のある上野と、
増上寺のある浜松町付近を結ぶ直線の真ん中にあります。

また、浅草にある浅草寺と、赤坂にある日枝神社を結ぶ直線は、
この直線より10度ほど時計回りに角度が振れていますが、
同じくその間には皇居(江戸城)が位置しています。

天海が江戸城の鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視し、
これら北東と西南を結ぶ二本のライン上に、
神社仏閣を設けたのだ、ということがいわれています。

さらに天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、
主要な街道と上述のらせん状の堀とが交差する地点の城門と見張所に、
平将門を祀った神社や塚を設置したとされています。

例えば、将門の首塚は奥州道に通じる大手門側、
これは皇居東側、東京駅丸の内口にほど近い三井物産ビルの横にあります。

上述の神田明神には将門の胴を祀られており、
これは江戸城の北東に位置し、
上州道に通じる位置にあります。

また、将門の手を祀る鳥越神社は総武本線、浅草橋駅の北側にありますが、
ここは江戸城の東北東の方向にあり、
かつて奥州道に通じる浅草橋門という門がありました。

さらに、将門の足を祀るといわれる、九段下の築土神社(津久土八幡神社)、
これは江戸城の北側にあり、ここには中山道に通じる牛込門がありました。

そして、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門(江戸城西側)に、
将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門(同西側)に置かれたとされます。

このように、天海は、将門の地霊を、
江戸の町と街道との出入口に祀ることで、
街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされています。

こうした施設の配置、および江戸城の工事は、
だいたい寛永17年(1640年)ごろまでには終わったようですが、
その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお生きており、
江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったようです。

前半生に関する史料がほとんど無いものの、
天海はこのように当時としてはかなりの長寿であり、かつ幕府からだけでなく、
朝廷からも江戸の基礎を創った人物と目され、
大師号を贈られるほどの高僧になりました。

高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、
いわば現在の国民栄誉賞のようなものであり、
貰った人は多くありません。

このようにエラくなって人には良くありがちな、
悪い評判もなく、人々に尊敬されていたようです。

その晩年には、罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、
紫衣事件では、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ています。

紫衣事件というのは、
幕府は公家諸法度を定めて朝廷がみだりに紫衣や上人号を
授けることを禁じたていたのに対し、
これを無視して、受け取ったというものです。

紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、
古くから宗派を問わず高徳の僧・尼、後には、
武士が朝廷から賜りました。

僧・尼の尊さを表す物であると同時に、
朝廷にとっては収入源の一つでもあっため、
幕府が禁じても跡を絶たず、
上述の三人も受けとってしまった、というわけです。

結局上の三人はこの事件を発端として改易、
もしくは蟄居となって失脚しましたが、
天海はこうした大事件においても幕府との間に立って、
モノ申せる高僧とみなされて、頼りにされていたようです。

こうやって江戸は栄えていきました。

 

 

 

4.まとめ

このように風水は、
今もなお語り継がれているものです。

ですが、
純粋な風水と混ざっている風水があることは事実です。

本来の風水は、自然の原理や地形を元に、
都市づくりや住居のために使われる大事なものです。

現代の住居は、
風水に関係なく建てられているものが多いです。

守られている地域や家は、
やはり風水をしっかりと取り入れています。

風水や地層学は、
現代の若者にもっと知ってほしい部分です。

出来る限り新しく住居を建てたり、
リフォームする際は意識してみてください。

 

 

 


あわせて読みたい


占いや鑑定をきちんと人生に活かすために読むべき記事

地震を予知する占い

占い鑑定で売上がどんどん増えた店長の話

占いという言葉の意味

 

 

監修占い師がおすすめする、電話占いランキング

【1位】電話占いヴェルニ
【2位】フィール
【3位】絆

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA